2006.06.24 Saturday
引越しマニア13 〜 堺編(その8)
やっと再開します!(binnさんの催促に奮起です(笑))
私の生い立ち、「引越しマニア」シリーズです…。
これまでの話は、カテゴリ「History or Hysterie?」をクリックしてお読みください。
私の生い立ち、「引越しマニア」シリーズです…。
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3歳8ヶ月の私に、妹ができた。
母は4人兄弟の3番目に生まれ育ったので、最初から私を一人っ子にせず兄弟をつくろう、と思っていたそうだ。できれば女の子と男の子の両方欲しかったようだが、女の子2人の姉妹になった。
妹が生まれてから、母はなんとなく精神的に疲れを感じることが多かったらしい。妹を妊娠中にもノイローゼ(本人談)になったこともあり、里帰りして出産後、再び堺の家に戻ってからマタニティーブルーになったとも言っていた。(これも本人談なのでなんとも言えない)
「主人は仕事が忙しいし、実の両親とも義理の両親とも離れた土地で生活しているから、2人の子供の育児は自分ひとりでがんばるしかない」
少々完璧主義な母はそう思い込んでいたのかもしれず、それが精神的に辛かったのかもしれない、とも思う。そのせいか、堺に引っ越してから妹が生まれて半年くらいまでの間の母の記憶はスッポリ抜けたようになっていて、私自身にもあまり記憶がないので、書けることが少ない。
これで母は、男の子も欲しい気はするが子供は2人で十分、と思ったようだ。
(実は8年後にその予定は崩れてしまうのだが、そんなことは当の本人だって知る由もない)
母のそんな状態をよそに、幼い私は堺に戻るとすぐ、大阪弁丸出しのガキんちょに戻ったようだ(笑)。相変わらず、女の子なのにボスだったしげちゃんやよっちゃんと遊んで、時々お向かいの「キューピーのおばちゃん」の家に上がって、ジュースやお菓子をご馳走になったりしていたわけだ。でも、妹ができたから、お姉ちゃん気取りで妹の世話をやくのも楽しんでいたらしい。
私の記憶がはっきりし始めたのは、妹が伝い歩きを始めた頃からだ。
私は、まだ1歳になるかならないかの妹の両手を握って、よちよちと歩かせたりした。ゆっくり手を離すと妹は数歩歩いてトン!とお尻をついて座ってしまう、そんな様子を覚えている。妹は私とは顔が似ていなくて、目がまんまるパッチリしたかわいい赤ちゃんで、頭も絶壁頭じゃなくちゃんと丸い頭だった(笑)。ついでに言うと性格的にも正反対だった。(ちなみに、私は父似、妹は母似である)
それからお風呂の記憶。父と私と妹の3人でお風呂に入った記憶が多い。もちろん母と入った記憶もあるのだが、母と私と妹の3人でお風呂に入ると、上がるとき妹を受け取る役目の父がいないと大変だった。母は、妹を湯船につかまり立ちさせておいてまず私を上がらせ、バスタオルで身体を拭いてパジャマを着るようにと言いつけて、それから妹を抱っこしてお風呂から上がるのだ。
ところがここでハプニング!
母は手を滑らせて、妹を湯船のお湯の中に落としてしまうのだ。慌ててお湯の中から妹を抱き上げると、妹は火がついたように泣き叫んだ。当たり前の話だけど。
ちなみに、母が言うには、私を湯船に落とした前科(?)もあるらしい。それから、この時から8年後に生まれる弟も、母に湯船に落とされた被害者である(笑)。
この頃、母はひょんなことから聖書に興味を持つようになった。といっても、もともと母は岡山のミッション系女子大卒なので聖書をまったく知らなかったわけではないが、学生時代は宗教的なことはあまり好きではなかったそうで、学内の教会で行われるミサなども何かと理由をつけては欠席していたフトドキ者(本人談)だったらしい。だが、例の「ノイローゼ」体験から、何かに頼りたい気持ちのようなものが芽生えていたのかもしれないと、母は言う。
そして、堺時代には忘れられない思い出がもう1つある。私が4歳の時のことだ。
うちにピアノがやってきた。
母は4人兄弟の3番目に生まれ育ったので、最初から私を一人っ子にせず兄弟をつくろう、と思っていたそうだ。できれば女の子と男の子の両方欲しかったようだが、女の子2人の姉妹になった。
妹が生まれてから、母はなんとなく精神的に疲れを感じることが多かったらしい。妹を妊娠中にもノイローゼ(本人談)になったこともあり、里帰りして出産後、再び堺の家に戻ってからマタニティーブルーになったとも言っていた。(これも本人談なのでなんとも言えない)
「主人は仕事が忙しいし、実の両親とも義理の両親とも離れた土地で生活しているから、2人の子供の育児は自分ひとりでがんばるしかない」
少々完璧主義な母はそう思い込んでいたのかもしれず、それが精神的に辛かったのかもしれない、とも思う。そのせいか、堺に引っ越してから妹が生まれて半年くらいまでの間の母の記憶はスッポリ抜けたようになっていて、私自身にもあまり記憶がないので、書けることが少ない。
これで母は、男の子も欲しい気はするが子供は2人で十分、と思ったようだ。
(実は8年後にその予定は崩れてしまうのだが、そんなことは当の本人だって知る由もない)
母のそんな状態をよそに、幼い私は堺に戻るとすぐ、大阪弁丸出しのガキんちょに戻ったようだ(笑)。相変わらず、女の子なのにボスだったしげちゃんやよっちゃんと遊んで、時々お向かいの「キューピーのおばちゃん」の家に上がって、ジュースやお菓子をご馳走になったりしていたわけだ。でも、妹ができたから、お姉ちゃん気取りで妹の世話をやくのも楽しんでいたらしい。
私の記憶がはっきりし始めたのは、妹が伝い歩きを始めた頃からだ。
私は、まだ1歳になるかならないかの妹の両手を握って、よちよちと歩かせたりした。ゆっくり手を離すと妹は数歩歩いてトン!とお尻をついて座ってしまう、そんな様子を覚えている。妹は私とは顔が似ていなくて、目がまんまるパッチリしたかわいい赤ちゃんで、頭も絶壁頭じゃなくちゃんと丸い頭だった(笑)。ついでに言うと性格的にも正反対だった。(ちなみに、私は父似、妹は母似である)
それからお風呂の記憶。父と私と妹の3人でお風呂に入った記憶が多い。もちろん母と入った記憶もあるのだが、母と私と妹の3人でお風呂に入ると、上がるとき妹を受け取る役目の父がいないと大変だった。母は、妹を湯船につかまり立ちさせておいてまず私を上がらせ、バスタオルで身体を拭いてパジャマを着るようにと言いつけて、それから妹を抱っこしてお風呂から上がるのだ。
ところがここでハプニング!
母は手を滑らせて、妹を湯船のお湯の中に落としてしまうのだ。慌ててお湯の中から妹を抱き上げると、妹は火がついたように泣き叫んだ。当たり前の話だけど。
ちなみに、母が言うには、私を湯船に落とした前科(?)もあるらしい。それから、この時から8年後に生まれる弟も、母に湯船に落とされた被害者である(笑)。
この頃、母はひょんなことから聖書に興味を持つようになった。といっても、もともと母は岡山のミッション系女子大卒なので聖書をまったく知らなかったわけではないが、学生時代は宗教的なことはあまり好きではなかったそうで、学内の教会で行われるミサなども何かと理由をつけては欠席していたフトドキ者(本人談)だったらしい。だが、例の「ノイローゼ」体験から、何かに頼りたい気持ちのようなものが芽生えていたのかもしれないと、母は言う。
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うちにピアノがやってきた。
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